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幻のビジターセンター

バーストウからダゲットの交差点方面へ

ルート66に携わって以来結構な年月が経つけど、知らないことってまだまだあるなぁというお話。
もちろんそうは言っても私は歴史家でもツアーガイドでもなく、ルート66に存在する多くのエキスパートである友人知人から見れば、私の知識なんぞ小学生程度のものだ。毎度その歴史や背景に通じる仲間から多くのことを教えてもらうのが、楽しみなのは言うまでもない。

でも今日は「え?なぜ今まで見落としてた?」という大反省する出来事があったので自省を込めて書き記しておきたい。
ということで、今回の舞台はカリフォルア州ダゲット(Daggett)だ。

Route 66 News によれば、ダゲットのルート66沿いに建つ、「有名な」スキーロッジルーフハウスが修復されることになり、本来在ったビジターセンターとして復活するとのことだ。建物の正面には元々「WELCOME」と書かれていたそうで、今回の修復も同様に行われる予定だがそのスケジュール詳細はまだ決まっていないようだ。

同州ビクタービルにあるカリフォルニア・ルート66博物館で働く友人、Delvin も自身のFBで同様のニュースを先週載せていた。
この建物の通りを挟んで東にある、もう使われていないガソリンスタンドが1940年に出来た際に、「スキーロッジルーフハウス」は民間に売却されたそうだ。

カリフォルア州ダゲットの街は、同州ルート66の拠点バーストウより東へ僅か10マイル(約16キロ)に位置し、車で走ればものの15分かかるかかからない距離にある。さらにその先には例の「Bagdad Cafe」が建つ、ニューベリースプリングスの街がまたまた僅か16マイル(約26キロ)にある。バーストウで宿泊した際には朝飯を食べるにBagdad Cafeまで行くのが私の常套なため、ダゲットに立ち寄れる機会は限られていた、というのが「言い訳」だ(笑)。

ダゲットの人口は約230人。街の交差点から唯一目視で営業が確認できる食料雑貨店「デザート・マーケット」以外は歴史を感じるのみの静かな場所だ。ルート66を離れて北方向へ15分程度車を飛ばせば、Yermo という街にたどり着き、多くのファンが訪れる「Peggy Sue Old 50’s Diner」という著名なダイナーがある。

街の歴史は1880年代まで遡る。ダゲットの北にはそのエリアの鉱山から銀が採れることで一躍有名になった Calico という街があり、当時ダゲットを通過していたサザンパシフィック鉄道は「Calico Junction」という駅名を付けていたが、Calico の街との分別に紛らわしいことを理由に、街名を1883年当時の同州の政治家であった John Daggett 氏の名前から命名する。
その後サザンパシフィック鉄道は、このダゲットを東西運搬の基点の一つにする予定だったが、鉱山の影響もよって土地の価格が高騰、基点はバーストウへと移行して行くという歴史もあるのだ。

そんな哀しい?背景があるせいなのか、その事実を知った後の自身の勝手な想い込みかは知らないが、私はここの線路の真ん中に座ってじっと先の景色を見るのが好きだ。(良い子は真似しないように)
危ないと思う方も多いだろうが、実は今はもうそんなに頻繁に列車は通らない。通る時もかなり遠くの距離からけたたましいサイレンが鳴るので、事故に巻き込まれることは無いのだ。

話は脱線したが、そう。私は何度もここを通っていながら、この建物の存在を知らなかったのだ!このニュースを見たとき「え?どの建物の話?そんなのあったっけ?」と久しぶりに「狼狽えた」。最近ことの他、記憶には自信を無くしているが、それとこれとは別物である。
自慢じゃないが、シカゴからサンタモニカの全長2,347マイル(約3,755キロ)に及ぶルート66の道はターン・バイ・ターンに「ほぼ」説明できるのだ。(ターン・バイ・ターンの和訳が上手く付けられない、泣)

そこで、自身で撮った写真からダゲットの風景を探してみた。
おおおお、あるじゃないか。
その建物は撮っていないが、その横の旧印刷会社は何枚もレンズに収めている。興味が引かれなかったのか、見る目がないのか。
下記の写真、右端の赤丸部分に映っているのが確認できる!(笑)

次回ダゲットを訪れる時は徹底的に観察しようと思う。
それまでにはビジターセンターになっていて、いやでも目に着くようになっていることを祈って!

デザート・マーケット正面(イラスト風デザインで)

Time No Waits, Again…

何とも悲しい日になった。
ニューメキシコ州ルート66アソシエーションの役員であり、ルート66沿線上多くの歴史的なネオン看板の修復に関して第一人者である Johnny Plath 氏が先週、コロナウィルス感染によって亡くなった。
まだ「たったの」68歳だ。
ニュースによれば彼のお父様も同様な理由でお亡くなりになったらしいのだが、どうやらお父様のお世話時に感染してしまったようだ。

Johnny Plath, the image from Route 66 News

Johnny と彼の兄弟である Larry は、同州アルバカーキにある Southwest Outdoor Electric 社でネオン看板の作成ならびに復元作業に従事していた。彼の業績の中でも最も注目に値する看板の復元は、同州Santa Rosa にあった Sun n’ Sand Motel、こちらも現在は閉店してしまっている同州 Moriarty の El Comedor の「ロトスフィア」、そしてアルバカーキにある De Anza Motor Lodge のそれらだ。

Johnny とニューメキシコ州ルート66協会とのパートナーシップは、2003年に同協会が提唱した、「ルート66ネオンサイン保護プロジェクト」がきっかけだったと言う。その際 Johnny は、最も困難な二つのネオン看板の修復に入札し、担当することになったとのことだ。上記で紹介した、サンタローザの巨大なサンアンドサンドモーテルの看板と、モリアーティにある「Rotosphere」ネオンだ。彼はこれらのプロジェクトが利益を生まないことを十分に理解していたが、ジョニーはこれらの歴史のあるアイコンであったネオンサインを蘇らせる機会を貰えることにモチベーションがあったそうだ。

Rotosphere at El Comedor, the image from Route 66 News

今年の初め、2020年は初夏ごろに渡米し、ニューメキシコ・ルート66を走る予定をしており、その際 Johnny Plath 氏に面会を申し出るつもりだった。もう何年もの間、是非お会いしてお話を聞きたいと思っていた方だ。本当に残念でならない。
ご本人のご冥福を祈ると共に、ご家族に心よりお悔やみを申し上げたい。

PBSが作成したドキュメンタリー映画「Route 66:The Neon Road」に、Johnny のネオン看板への情熱を見ることができる。この映画は Emmy Award も受賞した。お時間のある方は是非。

De Anza Motor Lodge, the image from Route 66 News

John’s Modern Cabin

またしても廃墟ネタ。
ここまで来るときっと私は廃墟フリークだと思われている気もするが、もう一度はっきり否定したい(笑)
廃墟って絵にはなるけど、何となくやはり怖い。日中に訪れれば大丈夫な場合も多いが、そんな時でも空気感はヒンヤリ気味。ホラー映画の見過ぎが、こんな時にふと何かが起こる感じがして気が気でならないのが本音だ。
元々幽霊は嫌いだし、肝試しなんて超苦手だ。20代後半ハロウィン時に友人らとユニバーサルスタジオの幽霊屋敷に行って酷い目に会ったし。。

と、まあ廃墟が好きなのか嫌いなのかという微妙なスタンスだが、ルート66を旅するようになってずっと気になっていた廃墟、”John’s Modern Cabin” は、ミズーリ州、ニューバーグというエリアにある。
このエリアは過去何回か通ったが、立ち寄る時間がなかったり、立ち寄っても見つけられない旅も何度かあり、つい最近まで個人的には「未開の地」状態であった。

そんな John’s Modern Cabin、2年前にやっと訪れることが出来た。
いや、「導かれた」と私は勝手に思いこんでいる。

まずはその John’s Modern Cabin について3分間でまとまった映像があるので興味のある方は。

2015年秋、その初訪問の前年、イリノイ州で開かれたあるルート66のカンファレンスで、友人 Mike Ward の奥様、Sharonよりあるプレゼントを頂いた。
Sharonはとても聡明で手先の器用な方。中でも刺繍を得意としていて、ルート66にまつわる建物や場所を独自のセンスでアレンジし、小さなハンカチサイズの刺繍を作成しては、ルート66上のモーテルや博物館、レストラン、お店やさんを営んでる人達に順次プレゼントしていた。

With Mrs. Sharon Ward

カンファレンスで会った時「トシ、今日はあなたにプレゼントを持ってきたわ。会えてよかった」と、いつもの優しい笑顔でハグしてくれた。
その時に頂いたものが、これだ。

!!! 何とその題材は “John’s Modern Cabin”!!!
私はこのキャビンがずっと気になっていて行きたくても未だ辿り着けていない、なんて誰にも言ったことは無いし、もちろんこのブログにも、FBにも書いていない。なぜ彼女はこのキャビンを私にくれる題材として選んだのだろう?
(余りの驚きにその際この重要な質問をするのを忘れてしまった)

だから私は思った。そう「呼ばれている」と!(笑)
次にミズーリ州に行く時は何が何でも行かなきゃならない。この時強く誓ったことを憶えている。

それから1年後、ミズーリ州でのイベントに参加した際に友人のRhys と「その場所」へと向かった。

With Rhys Martin

彼は何回かそこを訪れているので場所は知っているとのこと。イベントの始まる前の早朝、わざわざ6時半ごろ起きて一緒に訪問してくれたのだ。車で片道30分、決して近い距離ではない。

John’s Modern Cabin はルート66から少し外れた雑木林の中にひっそりと佇んでいる。当時はこの辺りも開かれていたのだろうが、今ではすっかり忘却の彼方に建っているようだ。

初めてみる荒れ果てたその姿は郷愁と共に感動を憶える。今まで何度か見つけられなかった苦い記憶と、嬉しさが入り混じった不思議な気分で写真を撮りまくった。

キャビンは、1931年ベアトリスとビルのベイレス夫妻によって “Bess’s Place” という名前でオープン。当時はダンスホールと6部屋のログキャビンがあり、旅人にホテル、モーテルとは違う「格安」な宿泊所を提供し人気を博した。夫妻はそれから約10年後にそのキャビンを売却、その後数人の所有者を経て、1951年、ジョンとリリアンのダーシュ夫妻が$5000ドルで買収。ジョンは当時の地元の法律(禁酒法)に反旗を翻し、周7日ビールを販売して地元民の人気者でもあった。
が、1957年の区画整理によってキャビンは大通りから奥に場所を移さざるを得なくなり(だから見えなかった!)、ダンスホールは破棄されることになり、近隣の Vernelle’s モーテルもレストランをたたむ羽目になったと言う。
結局このキャビンは Lilianの死後、Johnは閉鎖を決意。1971年以来破棄された建物は腐食と崩壊を免れず今日に至っている。

JMC, in August 1966, courtesy of Renee McHenry at MoDOT

最近はこのような場所からネオンサインや、お金になりそうな残された物品が盗まれるという残念なニュースが頻発しているが、同ミズーリ州に住むルート66に多大な貢献をしている、Rich Dinkela 氏(通称 Roamin’ Rich)が先日このキャビンを荒廃や盗難から救うため立ちあがってくれた。
これは Rich と彼の有志によって素晴らしいプロジェクトが行われた記録の一つ。
次回訪れる時は何等かの形で貢献したいと思っている。
そして Sharon にも大切なこと聞かないと!

 

復活!San Fidel, New Mexico


ニューメキシコ州サンフィデル。はっきり言って、いわゆる「廃墟」の類に入る街、いや集落と呼んだ方が良いだろうか。州内最大の街、アルバカーキより約60マイル(約100キロ弱)、キャノンシート、ラグナ、アコマという米国先住民の居住区を走り抜けるとその集落はあらわれる。統計では人口約100人程度と記されているが、いつも殆ど人に会ったことはない。記録では入植は1910年に遡り、当時は Ballejos という名前で呼ばれ同年12月24日に郵便局が設置されたらしい。(San Fidel という名前は1919年から)


一口に廃墟とは言っても中には建物そのものが立派に残っているものもある。当時は Cafe、Gas Station、Garage、そして Curio Shop と呼ばれたお店も繁栄し、実際その Curio Shop は2010年までアートギャラリーとして細々ながら営業をしていた。今回そんな サンフィデルの荒れ具合を「確認」すべくアルバカーキから西進、(MLBのキャンプを観るという理由もあったが)アリゾナ州へのドライブを敢行した。


サンフィデルのメインストリート

街に入ってすぐに目に止まるのは進行方向右側の Jack Rittenhouse、1946年あたりまでは随分と賑やかなトレーディングポストだったとか。荒れ具合が素敵過ぎる。何度も言うが私は廃墟フェチではない。が、中々の「作品」に自ずと車から降りて探検モードに入る。晴れている日中は何てことないのだが、冬場や夕方の暗くなって冷たい風が吹く時間帯等はこの手の建物は100%ホラー映画だ。ホラー映画も好きな手前絶対起こりっこないシーンまで想像してしまう。。。

そしてその先、Cafe、Garage と探検を続けた後、通りを渡ったギャラリー跡に人の気配がしたので目を凝らす。
あ、やっぱり人だ。しかも何か作業している。何度か走った経験の中でサンフィデルで会う最初の人だ(笑)

彼の名前は Pablo von Lichtenberg、アメリカはセントルイス出身のアーチストだとのこと。最近25年間ドイツはベルリンに居を構え、パリ、ニューヨーク、そして地元のセントルイスでも展示会を開く正真正銘の芸術家さんだ。約30年近く外国で暮らす私自身の経歴とオーバーラップし、つい話は弾んだ。
現在パブロが手掛けているのが Acoma Curio Shop を一大アートギャラリーとして復活させることだ。メインとなる建物をしっかり改装、中はモダンな感じで陽の光をふんだんに取り入れるギャラリーを中心に、アーティスティックな壁画プロジェクトを計画。隣接した公園には既にその骨格となるガゼボやオブジェが少しずつ置かれている。
驚くことにパブロの手掛けてるギャラリーの正面の建物、そして前述の Rittenhouse や Garage等、彼のアイルランドやオランダの友人達が続々購入したそうで、カフェやブックストア等、今後サンフィデルの街を REBORN させる計画があるのだそうだ。


勝手に廃墟と決めつけていた街が、ドイツ仕込みの米国人、オランダ人、そしてアイルランド人の手によって生まれ変わろうとしている。何とエキサイティングな話だろうか。作業の手を止めさせるのは申し訳ないが面白くて仕方ないのだ。
途中、奇しくも同じカリフォルニア州オークランド在住の、テキサス女性も通りがかって車を停めて会話に加わってきた。彼女もアーチストだと言う。今さっき会ったばかり、名前すらまともに知らない3人が廃墟?サンフィデルの街の路上で時間を忘れて語り合う。これだから人生は楽しい。ルート66には予想もしない面白い出会いや話題が転がっているのだ。

        作業中のギャラリー前でポーズと取るパブロ

パブロはベルリンから戻り、たった4日間でセントルイスの自宅を売却、そしてこの場所を購入したそうだ。彼曰く「人生で最も忙しい4日間」だったそうだが、想像には難しくない。自分の思う通りに進んだ、らしい。何と羨ましいことか。
サンフィデルの街は撮影に10分~15分程度を見込んでいたのだが、気が付いたら
1時間半は悠に経っていた。これから変わるであろうサンフィデルの街を想像しながら再開の約束をして西へ向かった。
生きてるとやっぱり良いことあるよね。

最後にパブロの手掛ける壁画プロジェクト、”Route 66 Art & Mural Wall Project” は現在クラウドファンディングで資金を募集中だ。
https://www.gofundme.com/artwall66

 

待ちに待った Fabulous 40’s Motel の再開

「Fabulous 40 Motel、そうか40年代にあったものなんだろうな。結構荒れてんなぁ。どうするんだろう、これ。」
私が1996年に初めてルート66、エイドリアンの街を通ってこのモーテルの「廃墟」を見た時の感想だ。

@1996撮影

エイドリアンはテキサス州オールドハム郡の、人口200人に満たない街だ。昨年10月のブログでも紹介した Midpoint Cafe そして、Fran Hauser さんの経営するお土産屋さん Sunflower Station が連なるルート66のメイン通り上にその Fabulous 40 Motel は存在する。
2016年5月に Ramona と Roy 夫妻がその権利を買い取り、10月初旬からモーテルを再開させた、という話は友人伝手に聞いていたが、実際にその雄姿を見るまでにそこから半年かかってしまった。
今年4月にオクラホマ・ルート66を旅した時にテキサス州アマリロから帰路に経つ予定だったから、この機会を逃してはなるまいとばかりにエイドリアンまで最終日の早朝から車を飛ばした。
残念なことに Fran のお店はまだ空いていなかったが、Midpoint Cafe で朝飯にパイとコーヒーをもらい Dennis と談笑。
その後満を持してモーテルへ向かった。ご存知の方もいると思うが、私はルート66 の歴史を文化を次世代へ継承する目的で多くのルート66の活動に参加させて貰っている。日本からの旅行者がルート66を走った時に少しでも暖かい歓迎をしてもらえるように、と行く先々のモーテルやお土産屋さん等でご協力も仰いでいる。
エイドリアンから一番近い宿泊施設の多い街は同州アマリロだ。ここは人口20万人を超えるルート66では大都市なのでデラックスなホテルからモーテルまで幅広く供給はある。が、なぜかルート66っぽいモーテルが無いのも事実だ。
私自身はアマリロに滞在する際、ルート66を思いっきり前面に出しているビジネスホテルっぽいところがあるのでそこに概ね滞在するのだが(このホテルはまた近いうちに紹介したい)、やっぱり「モーテル」がルート66には相応しい。
ってことで、この Fabulous 40 が再開したと聞いた時は是非オーナーさんと親交を深め今後の協力をお願いするため、モーテルを訪れた。

こんな素敵な姿に

時間は午前10時過ぎ、早朝チェックアウトが終わりちょうど良い時間だ。
ドア前に行きベルを押してみる。無反応。
ドアは鍵がかかっていて開かない。
仕方ないので周辺をうろついてみたら、「外出中なので用事のある人は携帯に電話せよ」との張り紙。早速電話する。

「ああ、こんにちは。私はトシってものだけど、XXX という活動をしていることもあって、是非一度会って話がしたいんです。何時ごろ戻られますか?」
「トシって?カリフォルニアの?そう、名前は聞いてるわ。訪ねてきてくれて嬉しいわ。今馬に乗ってバックヤードで仕事してるの。5分ぐらい待てる?すぐ行くわ」と、快諾してくれたのが Ramona さんだった。
ミズーリ州のMunger Moss Motel の「お母さん」も Ramona。どうやら Ramona という女性に悪い人はいないようだ(笑)


ちょっとして現れた Ramona さんは再開したばかりの、まだ改装中の部分も含めて部屋やモーテル周り、そして宿泊者の集うレクリエーション・ルームなんかも説明しながら魅せてくれた。

小さな街の小さなモーテルだけど、Ramona さんのお客さんに対する愛情や気遣いはとても大きい。Midpoint Cafe や Sunflower Station も含めて一泊するのにとても素敵な場所だ。レクリエーション・ルームでは夜まで様々な街、州、そして国からの旅行者が集まり情報交換したり親交したり、まさにルート66のファミリー感覚を経験するのは最高の場所と感じた。

エイドリアンまで足を伸ばす際は是非予約を入れ、泊まってみて頂きたい。
モーテルは現在 10部屋が使用可能(将来的には20部屋に拡張)で、宿泊客はレクリエーションルームでコンチネンタル朝食を無料で食べられるとのこと。
特に公式ウェブサイトはないので、Facebook アカウント “Fabulous 40’s Motel” で検索。


⇧ 夫妻は更に、1920年代のPhillips 66コテージスタイルのガソリンスタンドも併せて購入。ここはお土産店として活用する計画もあるんだとか。

次に訪れるときはどんな様相になっているのか今から楽しみで堪らない。そんな事を考えながらテキサス・ルート66をアマリロへ。

 

武蔵野の逃げ水@Texola, OK


私は決して廃墟マニアではない。と、常日頃から発信しているが廃墟にはどうも惹かれるものがあるらしい。ルート66ファンであれば皆が知っている Texola の街も一見そんな様子だが、実は人々が堂々と生活している街?村?集落だ。そのTexola を目指して更に西へ。


Texolaの歴史は1900年代初頭に遡るらしく、当時は Texokla とか Texoma と呼ばれていたらしい。オクラホマ州にあるのだけど、もう数マイル(も、無いかな)行けばそこはテキサス、なるほど頷ける呼び名かもしれない。Texokla はフランス人や ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)の支配時期を過ごした後、1907年オクラホマ州がアメリカ合衆国46番目の州になるけど、実際には1901年12月12日、ルーベン・H・グライムスが最初の郵便配達官となってコミュニティを設立したとの歴史があるのだ。

上の写真はメイン通り(ルート66)だけど、車も通らなければもちろん歩いている人もいない。廃墟群?と思いきや今でも約40人ほどが住んでいるとのこと。
(確かに人が住んでいる気配の家も幾つかある)

左端はTexola では一番有名な Magnolia Service Station。開業は1930年頃で建物はいわゆる「民家風」、周りの景色に馴染むよう設計されたそうだ。当時東に向かって旅する人々にとってはオクラホマ州最初の給油所だった。

大通りはせいぜい数百メートルの距離だけに、車を降りていつものように一歩一歩街を散策してみる。4月の後半だと言うのに今日の気温は88度(摂氏約31度)。
路上にペイントされた色あせたルート66のシールドを撮影している先には幾つもの「実際には無い水たまり」が見える。逃げ水とは良く言ったものだと感心した。

 

California Route 66 & Joshua Tree N.P.:その⑤


ニューベリースプリングスを出て30マイル程度走ると、ルドロウ(Ludlow) という街に着く。この区間はほぼインターステート40号線に沿って走っているので、実際にこのインターステートを走る人も多い。ルドロウにはその名も「Ludlow Cafe 」というベタな?名前の有名なカフェレストランがあるけど、本当の事を言えばここには一度も入ったことがないんだ(笑)
いや、訂正。入ったことはあるけど、「食べたことがない」が正解かな。
確か一度コーヒーは飲んだ。
特に理由探しをしたことはないんだけど、きっとバグダッドカフェのせいだと思う。あそこで何か食べれば30分もたたないうちに腹は減らないしね。
だから今回も申し訳ないけどスルー。

このルドロウから(東に向かう場合)ルート66は大きく南へ迂回する。アンボイ(Amboy) を始めとした魅力的な景色が続く場所だ。日本からの旅行者の皆さんにはこのエリアとアリゾナ州セリグマンあたりが非常に人気が高い。なぜだか聞くと「(ルート66の)イメージに一番近い」からだそうだ。
アンボイには「Roy’s Cafe」というルート66全体でも非常に知名度も人気も高いスポットがある。それがここ。

確かに絵になる看板だよね。Roy’s はその名の通り Roy さんが1938年に始めたビジネスで、最盛期はカフェ、モーテル、修理工場、と幅広く活躍したらしい。1950年代には700人しかいない人口で、その10%にあたる70人が働いていたっていうから凄いものだ。でもいつもの話、1972年のインターステート40号線の開通と共に業績は急降下。その後カフェとガスステーションで細々と営業を続けながら2003年にイーベイにオークションとして出品したそうだ。
現在は日系人のアルバート大倉氏がRoy’s の利権を買い取って元の景観を保つ努力をしながら営業中。
一度偶然 Roy’s で話をする機会があったけど、とても気さくな素敵な人だった。
いつもここを訪れる度に膨大な数の写真を撮りまくるので今回は我慢とばかりにちょっとだけガソリンを入れて先へ進んだ。

カディス・サミット (Cadiz Summit)、アンボイから更に15マイルほど行ったところにあるモハべ砂漠南のゴーストタウン。ここには多くの旅行者が好き勝手に落書きをした廃墟がある。その上、道にははっきりとルート66のペイントがされ、西に向かえば道と山の間に夕陽が映える、という愛好者の中では知らない者はいないスポットだ。


この廃墟跡は、友人の Jim Ross 氏が仲間と共同で出版している「Route 66 Sightings」という写真集のカバーにも使われているんだ。もちろんアマ中のアマの私の写真の腕前は彼には到底かなわないけど、恒例の?自分の愛車を入れて撮ってみた。(かなりイケてる出来なのではないかと内心ほくそ笑んでるんだけどw)


と、いうところで今回のルート66の旅はここまで。次のポストはやっと今旅のメインパート、ジョシュアツリー国立公園での模様をお届けできそうです(笑)
気がつけば今日は12月30日、今年も残すところ後2日となりました。
お付き合い頂いている読者の皆さま、本当にありがとうございます。
また来年も元気でこのブログ上でお会いしましょう。良い年をお迎えくださいね!

ガスコナーデ橋、未来への第一歩


今年の4月、「Save the Gasconade Bridge」のラリー運動に参加したけど、いよいよここから真剣な話合いが始まる。
ミズーリ州交通局(MoDOT)は同ブリッジへの今後の対応策を12月14日
午後4時、同州レバノンにある Laclede Electric Cooperative 社にて行うと発表。
そのニュースリリースには「予定されている会では、正式なプレゼンは行われませんが、MoDOT のデザイナー及びエンジニアは同ブリッジに提案されているオプションについて説明します」と記載され、「正式」ではないようだけどね。
その「オプション」とは
① 何もしない
② MoDOT 又は第三者契約者によって既存の橋を修復
③(既存の橋を取り壊し)同じ場所に新しい標準的な橋を建設
④(既存の橋は残し)近くに新しい標準的な橋を建設
⑤ 以前のリハビリプロジェクトの既存の橋脚を使用して、北部外側の道路セグメント間を接続
⑥ 既存の橋と同じ場所に新しいトラス橋(現在の橋に似ている)を建設
の、6つ。
会議には MoDOT 所属の歴史保存チームも主席し、連邦第106条プロセスを説明する準備も出来ているそうだ。
因みに連邦第106条プロセスというのは、記述してある通りに書いてみると、「その歴史的な特性を特定し、それらへの潜在的な影響を分析し、(分析結果がネガティブな場合)それら影響を回避、最小化又は緩和するためにどのような措置を講じる必要があるかを決定するしくみのこと。

役所(国家)が一刀両断でダメ!っていうんじゃなく、今後の措置に対して選択肢を提示しているのは嬉しいことで、私たちのラリー運動の意義も少しはあったかと感じるね。
当日は出席できないけど、ミズーリの皆さんの熱意が是非届いて欲しい!

 

 

NM Rt66 の〆は Longhorn Ranch

さてサンタフェを出てアルバカーキへと行くわけだが、インターステート25号線をただ単に下って行ったのでは面白くない。昔の通勤経路と一緒だからだ。というか、Moriarty 近辺にも寄って帰りたかったということもあり、さっき来たラスベガス方面に少し戻ることになるが、285号線を南下する道を選択してみた。
今日は日曜日、相変わらず車はいない。

msr_2035
そんな道を40分ほど走るとインターステート40号線と交わる Clines Corners のガスステーション兼休憩所が見えてくる。今日は全く停まる意向はなかったんだけど、”When Nature Calls” ということに加えガスももう少し入れておく方が良いだろうとの判断で結局停車。

2日前に「今回はこの一回きりだろう」とアルバカーキからトゥクムキャリへ飛ばした時に思ったけど、こういう場所って何回か停まらせるように上手く出来てるんだろうか?(笑)
そうは言ってもここはキレイだし、お土産品から食べ物まで充実している。有難い場所ではあるんだけどね。

Clines Corners からの西行きのルート66は存在しない、というかインターステート40号線になっているので所謂「下道」はない。インターステートを我慢して通るしか仕方ないのだが、ちょくちょくと降りられる出口があるので興味に素直に従って降りてみる。普段あまりしないんだけど、インターステートの上を橋になっている車道から撮ってみた。車を橋の脇に停めるんだけど、まあ何せ交通が一切ないから安心。でもこうしてみるとニューメキシコって空と雲が素敵過ぎる。

msr_2038
東西に走るインターステートの南側に少し車道があったから(繋がっていないと知りつつも)右折して西に向かって走ってみる。「さて、どこまで行けるやら」なんて考えていたら1マイルも走らないうちに。。。
自分の四駆なら行けるだろうに、でも今日はレンタカー。しかも燃費を考慮して小型の「走ればいい」車。残念。舗装が突然終わって砂利道オンリーとなる。

msr_2047
と、言っているうちにお目当ての ”The Longhorn Ranch” に到着。ロングホーン・ランチは1940年にお土産屋さん、ガスステーション+カフェというコンセプトでルート66に華麗に登場。インターステートのバイパスの影響を受けて1977年に閉鎖されるまで、モーテルやミニ博物館まで拡充されて旅行者に大人気の場所だった。今はもう建物もなく、朽ち果てた看板しか残っていないが、それでも往時の繁栄を想像するのは楽しい。看板ポストの周りは現在鉄柵が張られていて近寄れないように出来ているが、どうしてもポストの真下に行って写真が撮りたかったので、少々乱暴な入り方をしたら膝を5センチほど切り、流血しながらの撮影となってしまった(笑)

たったの三日間だったけど、とても濃い内容だった。とても一昨日来たとは思えないぐらい盛り沢山の内容であっという間に時間が過ぎて行った。
さてアルバカーキまで残り45分ぐらいだろうか。
夕方になって来たからだろうか、アルバカーキが近づいて来たからだろうか、インターステートに車が増えてきた。

 

 

ペコス国定歴史公園

話を小旅行へと戻そう。いきなり余談だけど、さっき過去の記録を見たらこの小旅行の書き始めが今月初旬だった。たった3日間の話だけど、もう月末だ。。。
根気よく読んでくれる方、感謝です。

ラスベガスを出た後は、実はサンタフェに寄ろうか寄ろまいかでかなり悩んだ。でもここまで来たらグロリエッタに寄らないといけないし、結局285号線を下って行くからなあ、とサンタフェ方面へ進むことを選択。当初は全く予定になかったが、ならばということで Pecos National Historic Park (ペコス国定歴史公園)に立ち寄った。入場料はFREE。舗装された道を歩いて周るセルフツアーだ。

pecos2
この場所はペコスのアナサジ族の末裔と植民地支配を狙うスペインが出会った場所という設定。(事実だよ)公園パンフの情報によれば竪穴式住居の跡が確認されてるのは800年あたりで、1100年にもなるとネイティブ・アメリカンの伝統的な共同集落、「プエブロ式住居」が造られ始めたらしい。それから約300年後の1400年代中期には2000人もの人口を抱える大都市になったとか。
とはいえ、現代においては非常にゆっくりとした時間の流れる神秘的な空間だ。
サンタフェからも車で小1時間かかる場所にあるせいか、余り多くの他の観光客を見たことがない。
風の音、しか聞こえない孤独と静寂の狭間にいる、そんな感じかな。

pecos3
上写真の穴の部分は、KIVA(キヴァ)と呼ばれる集会場。アナサジ族が宗教的行事を行うときに集まる「地下室」だ。地上から見ると梯子が突き出ていて、地下は円形又は四角い部屋となっている。KIVAの床下は古い世界、内部は前の世界、そして梯子を登って出る外は新しい世界を表しているのだそうだ。下に入るとこんな感じ。
pecos4
そんな神聖な逸話満載の場所だが、歴史はいつも罪深い。ここも例外なく多くの血と涙は流されたようだ。永らくの間ネイティブアメリカンとスペインからの宣教師団体で戦闘が繰り返されてきたものの、1700年代前半に建てられた教会跡が残るように平和的な融和政策が基本になったらしい。
しかし1780年代になると、コマンチ族の襲撃や疫病の流行で街から忽然と人が消え、一気に廃墟となる。益々ミステリー感満載だね。
ニューメキシコ州には私たちが普段「アメリカ」で経験することと全く違うものが溢れている世界だ。まだ旅したことのない方は是非一度、体感して頂きたい。

 

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