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2020年のフィールド・オブ・ドリームス

1989年に見た映画「フィールド・オブ・ドリームス」、正直当時はあまり感動しなかったことを憶えている。むしろどちらかと言えば、ストーリー的にも、分かったような分からなかったような(笑)
何かいきなりケビン・コスナー氏をディするようなことになったけど、真意はそうじゃない。(むしろ彼は好きな役者の一人だ)
そんな映画のタイトルを何年も後になって、カンザス州バクスター・スプリングスを訪れたときに再び思い出した。同街にある「フィールド・オブ・ドリームス」と名付けられた施設を訪れたときのことだ。

いや、正確にはその施設の名前が書かれた看板の前を通りすぎたときだろうか。二度見をした私は思わず急停車。ギアをバックに入れてその標識をわざわざ確認しに行ったことを憶えている。

その「フィールド・オブ・ドリームス」をまた!鮮明に蘇らせてくれたのが昨月のアイオワ州デモインの地方紙「Des Moines Register」に掲載されたこの写真記事だ!

何とMLBは来年2020年、ニューヨーク・ヤンキースとシカゴ・ホワイトソックスの試合を同州ダイアーズビルで開催することを発表したのだ!
マジかっ?!と記事を目にしたとき疑ったのは言うまでもない。え?なぜ?
無数の疑問が頭の中を駆け巡る。
でもよく考えるとそんな無粋な質問はどうでもいいではないか。興行してくれるというのだから有難く楽しませて貰えればそれで良いのだ!

映画を観た方はよく憶えていると思うけど、この映画の撮影にあたって、ダイアーズビルは実際のベースボール場を建造したわけで。その後もその施設は土地の所有者によってしっかり保存され、今でも勿論使用できる立派な現役の施設さんなのだー!もはやベースボールファンにはたまらない「聖地」だね。(昨今この表現がメディアでも多い(汗)

MLBの公開したポスターによれば、試合予定日は2020年8月13日。しっかりホワイトソックスのスケジュールにも載っているぞ。

しかも当日は試合だけではなく、ベースボール・クリニックの開催を中心としたファンサービスも半端ないという。。。
あー観たいな~、行きたいな~、チケット取れるかな~
オールスター戦の1か月後かぁ。
日本はお盆かぁ。
また一つ悩みのタネが増えちゃったよ!

Castaneda Hotel 70年の時空を超えて

Time flies. (光陰矢の如し)はこんな短期間に使うべき言い回しではないのかもしれない。だが本当にそんな感じがするのだから仕方がない。
前回その「元ホテル」に訪れたのが最近のことだと思っていたら何と、2016年10月、実はそれからもう 2年半も経っていたのだ!

2019年4月、私はニューメキシコ州ラスベガスの「Castaneda Hotel」を再訪する機会に恵まれた。Castaneda Hotel のオーナーは「La Posada 物語は永遠に」(2018年3月21日記事)で紹介したアラン。Castaneda と私の関わり、そしてホテルの歴史については「遂に La Castaneda Hotel の中へ!」(2016年10月22日記事)を参照して頂きたい。

こういうのを虫の知らせと言うのかもしれないが、今回限られた日数のルート66旅で選んだのがニューメキシコ州東部だ。Castaneda Hotel も随分改築改装が進んだであろうと予測し、先月アランに進捗状況を知りたくショートメッセージを送ってみた。聞くところによると事は順調に運んでいて、来月には何室か実際にお客を泊められるかもしれない、と。「こりゃ絶対に見に行ってみないとな」私はまだ何も予定も決められない端からぼんやりと決心していた(笑)

4月4日(木)前日トゥクムキャリに泊まった私は、早朝からUS84号線を飛ばしラスベガスへと向かう。残念ながらアランはアリゾナ州のホテルの仕事で当日は不在とのこと。ホテルの仲間に話しておくからゆっくり見て行ってくれ、と事前に連絡をもらったのでお言葉に甘えた。
US84からフリーウェイ25号線に入り、University 通り出口で降りる。何も変わっていないのが心地良い。Grand アヴェニューの交差点まで進み左折、そしてすぐをもう一度左折する。
そこで見えてきたモダンに生まれ変わったホテルの外観に唖然とした。いや表現の訂正が必要だ。外観は変わっちゃいない。煉瓦作りの、あの何年も見てきた Castaneda Hotel だ。変わったのは周りだ。薄暗い柵も撤廃され、周りの樹木もきれいに伐採。エントランス周りもきれいになって、文字通り「ホテル」になっていた。

窓が大きく、陽の光がしっかり注ぎこむ明るいロビーのドアを開けてみる。
フロントには女性のスタッフが一人。自分がアランの友人でホテルを見せて貰いにに来たことを告げると、とても心良く案内してくれる旨を伝えられた。
実は4月3日の夜、初めてのお客様を7部屋分、泊めたそうだ。
今風に言えば「ソフトオープン」といったところか。
全25室はまだ完成していないようで、泊められる状態になった部屋のみ提供開始だそうだ。とはいえ、BARやレストランを始め、客室以外の部分はまだ何も出来ちゃいない。こんな状態でお客を泊めようってんだから、さすがアメリカだ!
今回案内してくれたのは経験豊富なベテランマネージャー、Yvonne さん。彼女のお客様への接し方を見ていれば、このような状況下でも彼らが充分満足するホスピタリティは「完成」していると感心した。
その Yvonne さんに連れられて、ホテルの隅から隅まで案内してもらった。

ロビーは非常に明るくシンプル。今後どのような装飾がされていくのかは分からないが、可能な限りシンプルさを保って欲しいところだ。

そのロビーから階段を上がっていくと客室エリアとなる。

さきほど触れたように全部で25部屋。聞くところによると全ての部屋にテーマがあり、異なった内装とのことだ。例えば201号室は「The Hare」尾っぽの黒いジャックラビットと、白いジャックラビットの競演、202号室は「Bluebird」。ニューメキシコ州に棲む西部、中西部、東部のブルーバード(日本だとコマドリ?)が勢揃いだそうだ。

部屋の窓からは隣にあるアムトラックの駅もしっかり見える。なるほど Harvey House の真骨頂だ。

内側に面している部屋の窓からはまだ作業中の中庭が剝き出し(笑)

せっかく?なので私の一番好きな中庭へ出て幾つかショットを撮ってみる。

パノラマもやってみた。

ここは前回も見せてもらったBARエリアだが、その時は埃をかぶった薄暗い感じであふれていたが、ずいぶん綺麗にに生まれ変わった。

実はこのBARが最も喫緊の課題場所だったようで、その時 Yvonne さんは、今月どこかでオープンしたいと言っていたが、さっき友人のFBポストで「BARのオープンまであと72時間!」という興奮気味のコメントが書かれていた。かなりの急ピッチでやってるのかな。因みにこんな「やることリスト」も貼られていた。


レストラン、厨房、そしてワインセラー、はまだまだこんな感じ。

オープン間近という最も忙しい時に嫌な顔一つせず、ゆっくりいろいろと説明しながら見せてくれた Yvonne さんには本当に感謝。ニューメキシカン・ホスピタリティとは正に彼女のような御持て成し精神のことを指すと再認識。同じホテル業界勤め、自身は営業職ではあるが、改めて学ぶことが多かった。
聞くところによれば Yvonne さんはここラスベガスの出身だが、サンタフェの有名なホテル「La Fonda」に長く勤務したらしい。なるほど、だ。
Castaneda のような歴史が長く、今回70年の時空を超え甦ったホテルなんかは、そう、「あれ」が付き物?だ。La Fondaでも時折その手の話はあったらしい。ここでは詳しく書けないが、興味のある人は是非 Yvonne さんに直接聞いてみては?!


ホテルのある通りはまだまだ寂しい。アムトラック駅があるのみ、で他には車の修理工場が一軒あるだけ。とっくの昔に閉店してしまった飲食店や散髪屋の看板がひっそりと佇んでいる。

Castaneda の再生と共に、この道もまだ活気を取り戻す日が来るのだろうか。
そんなことを考えながら写真を撮っていたとき、ふと通りがかりの男性に声をかけられた。
「オレさ、お前のこと知ってるよ。SNSでみたことある。確か日本人だよな。そうか、このホテルまで来てくれたんだな、うれしいよ俺は。もう少ししてさ、お客が沢山来るようになったら、オレはここでカフェもやろうかと思ってるんだ。その時は来てくれよな!」
酒臭い息を吐きながら、でも人懐こい笑顔で早口にまくしたて、ひょうひょうと去って行ってしまった。
お世辞にもカフェが開けるようには見えない。
でもこういう歴史の再生は多くの人にいろんな夢を与えるようだ。
アランと彼のチームメンバー全員に感謝するとともに、今度こそは Castaneda Hotel が長く永劫続くことを願って。

ホテルのホームページ:
http://castanedahotel.org/

ホテルの改装状況アップデート:
https://hotelcastaneda.blog/

 

 

ミズーリの大空の下で

前回の訪問から約2年。その後どうなっているのか気になる二つの場所がお互いに5マイル(約8キロ)程度の距離に存在する。
2016年11月、Whitehall Mercantile は、在庫を全て売り切って閉店する、とのニュースが流れた。事の詳細は下記 Archiveを参照してもらいたいが、その後本当に閉まってしまったのかは不明のままだった。
「Whitehall Mercantileが閉まっちゃう」http://www.toshi66.com/2016/11/08/

昨年9月に立ち寄った時、お店は閉まっていたが(通常の営業時間内)中には未だ沢山の商品が残っていた。外観からは精気が余り感じられなかったのでここは引き続き調査が必要だなー。

さて、もう一箇所の方は未来ベクトルの「明るい、その後が気になる」場所。
時は同じく2016年、伝説のオーナー夫妻、Lena と Gary の Turner 夫妻が他界した後、娘のBarbara が後を継いだミズーリ州の観光名所 Gary Parita Sinclair Station、の「その後」を今日は紹介したい。

当時の詳細はこちらも下記 Archive を参照して頂きたい。
伝統の継承:バーブの決断   http://www.toshi66.com/2016-04-30/

待望の後継ぎ問題が解決した後も、夫妻の他界後約1年近くにわたって荒廃していた場所の再開には多くの時間の費用がかかるとみられていた。もちろん実際その通りで、Barbara と彼女の愉快な旦那さん George は、文字通り一生懸命来る日も来る日も Gay Parita Sinclair Station の再開に努力したことは想像に難しくない。

殆ど真夏の酷暑に近い快晴の9月下旬、私は彼らを訪問した。
押せ押せのスケジュールのため彼らには行くことを伝えていない。
忘れられてないだろうか?と一瞬心配になったが、SNSのおかげで今は遠くの友人知人の近況が簡単に手に入る。それは同時にいつ「本当に」会ったのかという記憶が曖昧になるという欠陥も含んでいるんだけれど(((´∀`))ケラケラ

通りから見る限りではすっきりと片付いた良い感じに見える。
特に人影は見当たらないが、開いているはずだ。

車を降りた瞬間に滝のような汗が流れる。今日のミズーリは9月とは信じられないほどの湿気と熱気だ。
「おやおや、珍しいのが来たな」、独特のハスキーボイスで George が人懐こい笑顔と共に迎えてくれた。
綺麗にアップグレードされているのは建物の外観だけではない。

(私のステッカーもしっかり貼ってもらっている)☝

2016年には実は2回、彼らを訪問する機会があった。1回目は4月、同州ヘイゼルグリーンでガスコナーデ橋を守るラリー運動に参加した際で、もう1回は同年8月にスプリングフィールドで開催された「第6回 Annual Festival」に参加した時に一瞬立ち寄った。とはいえ、その時は満足に話もできない挨拶程度のものだったが。。。
George はその後どのように修復作業や新しく購入したものの設置作業に奔走したかを相変わらずの早口で言葉も熱く語りまくった(笑)
ガレージはきちんと整理され、何と訪問客が座れるスペースまで出来ている。

ガレージの裏には1932年の International が鎮座。一回売却したものを再び買い戻したそうだ。George の計画では同じものがもう一台、欲しいらしい。

フロントに飾られたトラックも沢山の花が飾られる素敵なオブジェとして堂々と。

裏は団体客もエンターテイン可能な開放的なスペースにたくさんのピクニックテーブルが設置済だ。

そして両親への哀悼を形にしたファウンテンは立派に完成していた。

押せ押せのスケジュールとは言え、ここに来るときは(というか Barbaraと George に会うときは)長時間滞在になることは覚悟している(笑)とにかくふぃたりは話好きなのだ。Barbara のお父上そっくりだ。
滞在中にイタリアからの4人組の訪問もあり、場は大いに盛り上がる。
今回の米国滞在はわずか1週間、この歳になるとそれなりのエネルギーが必要になってくるが、こういう時間は本当に貴重で何にも代えがたい。
マスターカードの宣伝そのもの、まさに Priceless だ。

2016年より始まった「Annual Show Off Your Ride」と呼ばれるクラシックカーやバイクで皆でルート66を走るイベントも、毎年5月開催で定着したようだし、昨年はイリノイ州ルート66を牽引する Roamin’ Rich こと、Rich もこの Gary Parita の前の道に大きなルート66サインシールドをペイントして話題となった。
今後より一層、この二人の努力でGay Parita は発展して行くだろう。

最後に三人で、はいチーズ!

 

キューバとコニーとワゴンウィ―ル


ミズーリ州キューバ。ルート66に興味がなければこの街を知る人は少ない証拠だと思うが、街の話をすると「ん?キューバ?」と大体聞き返されることが多い。かく偉そうに言う私ももちろん、うん十年前はその一人である。パリ、マドリッド、ミラノ、そしてローマと、歴史の浅いアメリカには、欧州でも指折りの著名な街名が着いた街がしっかりあるのだ。それを考えるとキューバという街名があっても然程驚かないのが本音か(笑)
そんな話はさておき、キューバに到着したのは夜の9時少し前。ルート66上のモーテルは夜が早い。簡単に言えば全体的にモーテルのオーナーは高齢の方が多いからであり、お客の到着が遅いと鍵だけ置いてさっさと寝てしまうのだ。
さて今夜はどうだろうと考えながら目的地近くに行くとネオンは点いている。良かったと思う反面、悪いなという気持ちで車を停める。

「お前がトシかい?」と見慣れない中年男性が笑顔で迎えてくれる。
「そうだよ、コニーはもう寝ちゃったかい?」
「ああ、とっくに休んでるさ。オレも9時になったら帰ろうと思ってたんだ。はっはっは。まあ間に合って良かったな、ほら鍵だ。コニーは明日朝8時にはいるはずだよ」と言いたいことだけ言って、お休みと言わんばかりに後ろ手を振って彼は去っていった。
明日は7時には起きて朝飯に行く予定だったから8時なら丁度良い。そこそこの距離を運転しているだけに早めに横になろうと部屋に入る。

これだけ見ると豪華には決してみえないが、ここ ”Wagon Wheel Motel”は、ルート66上に建つモーテルとしては中々立派なのである。現在の総数は19部屋。シングルからファミリー用、そしてスイートまであり、WiFi 完備という心意気だ(端に田舎なので電波が悪いという説もあり)。建物の前には中庭があり、仲間内でゆっくりBBQをして過ごせるスペースもある。
部屋の中はベッドはもちろん、一応TVもある。洗面台、シャワー、トイレと不足なものはないのだ。


ルート66を旅する醍醐味の一つが早朝の美しさだ。もちろん晴天でないとそうは行かないのだが、幸運にも私は晴れ男。ルート66を走って雨にやられるケースは結構は少ない方だ。
昇る朝陽もワゴンウィ―ルの看板と重なっていい感じである。

朝7時、さっそく楽しみにしていた「イベント」に心を躍らせる。モーテルあら歩いて5分ほど行ったところに ”Shelly’s Route 66 Cafe” とダイナーがある。結構友人仲間では好評はダイナーだが、まだそこで実際食べた経験がないのだ。ダイナーは朝6時~午後3時まで。そう、朝と昼専門だ。そして月曜日がお休みなわけだが、過去何回かなぜかワゴンウィ―ルに泊まって朝を食べようとすると月曜の朝にあたるわけで、夕方通り過ぎた回数を含めると相当数なチャンスをふいにしてきた。
それだけに今回はとても楽しみにしていたというわけ。

メニューはお決まりのアメリカンな朝食だが、やっぱり美味い、落ち着く。
定番の目玉焼2個とソーセージパテ、ハッシュブラウンにトースト+コーヒー、でわずか約4ドル強。凄まじい。

ゆっくり朝食を撮った後は、Mural City(壁画の街)と呼ばれる所以である街のいたるところに描かれている画をチェックしに散策。毎度見てみるものだけにきちんとあるかの確認作業みたいなものだ(笑)Cuba Mural Project が始まったのが2001年頃。それから7年ほどかけて地元のアーチスト達が先駆となり合計12の壁画を完成させた。その後2つ加えて今は14となっている。地元の人達の街愛はこんなところでも溢れている。

さて8時過ぎ、約3年ぶりのコニーに対面。この早朝時は(きっと昨晩の宿泊客も少なかったのか)ほぼ誰もロビーに現れないので、たっぷり1時間ほどかけてお互いの近況を報告しながら談笑。

コニーももう70歳を過ぎているがお孫さんが後を継いでくれるまでもう数年は一線で頑張るのだそう。最近の商売は良い感じだと言っているのが非常にうれしい。でも満室(19室だが)になると部屋の掃除や洗濯が大変らしく、あまり満室にはなって欲しくないと笑って言う。本音は10室ぐらい毎晩入ってくれるのが最高なんだとのこと。同じホテル業でも事情が変われば話が変わって面白い。
次回また会えることを約束し、愛情溢れるハグを頂戴した。

Wagon Wheel Motel
901 East Washington Blvd.
Cuba, MO 65453
(573)885-3411

Shelly’s Route 66 Diner
402 South Laurence Street
Cuba, MO 65453
(573)885-6000

 

Baxter Springs の再開発

全長2,448マイル(約3,980キロ)に及ぶ道の長さの中で、僅か13マイル(約21キロ)しかないカンザス州ルート66。しかしながらその全体の0.01%にすら満たない13マイルの中には見どころも多く、私の大好きなパートでもあるのだ。
カンザス・ルート66を代表するものは何か?と聞かれればガレナにある Cars On the Route や、リヴァ―トンのグローサリーストアを想像することが多いと思うけど、今日は伏兵(と言ったら失礼千万w)?バクスター・スプリングスの街をご紹介したい。と言うのも、ここ数日、新しい「街復興」のニュースが飛び込んできたからだ。

バクスター・スプリングスはその街名の通りミネラルや亜鉛が出て、当時の原住民にとって夏のキャンプ場でもあったらしいのだが、それに目を付けた John J. Baxter 氏が160エーカーの土地で宿場と雑貨屋を1853年に始めたことから街の歴史は動いている。土地柄数々の紛争へ経て、1868年にバクスター・スプリングスという名前になり、当時需要の高かった牛肉の輸送鉄道の北部への中継地点として街は飛躍的な発展をした。しかし時代の流れと共に鉱業に頼っていた経済は衰退し、今ではメインストリートも少し寂しいものになってしまった。

そんな中聞こえてきたのが、街近辺、オクラホマ州マイアマ―に拠点を置く非営利法人「Decades of Wheels」の代表、David Hickmott 氏の発案、街のメイン通り、ミリタリーアベニュー(ルート66)の1100ブロックの西側で大規模な街の再開発の計画だ。そこでは車博物館、ゴーカート・トラック、地ビール工場、そしてレストランやバーを展開するという。博物館「Decades of Wheels」では常時30台程度の映画に出てくる著名車を中心に展示、さらにそれらを定期的に入れ替えをすることでリピーターを作ることも忘れていない。エリアはいつもライブミュージックやレストラン、子供向けのアトラクションも設け、カンザス・ルート66が多くの観光客を集められるよう「家族で過ごせる場所」の提供に尽力するそうだ。

開店は今年の10月13日(土)、秋のルート66旅はカンザス州を目指したいね!
公式ページはこちら ⇩
https://www.decadesofwheels.com/

バクスター・スプリングスのメイン通りいには現在は閉鎖されているカフェ、著名なレストラン「Angels on the Route」を始め、薬局、質屋、そしてお土産屋さんが細々と営業しているのみ。ただ、最近再開店したリッツ劇場のオーナーさんはこの再開発にただ一人反対中と聞く。素晴らしい計画だけに一日も早く和解して、皆で同じ方向に向いて発展して行って欲しいね!

 

 

復活!San Fidel, New Mexico


ニューメキシコ州サンフィデル。はっきり言って、いわゆる「廃墟」の類に入る街、いや集落と呼んだ方が良いだろうか。州内最大の街、アルバカーキより約60マイル(約100キロ弱)、キャノンシート、ラグナ、アコマという米国先住民の居住区を走り抜けるとその集落はあらわれる。統計では人口約100人程度と記されているが、いつも殆ど人に会ったことはない。記録では入植は1910年に遡り、当時は Ballejos という名前で呼ばれ同年12月24日に郵便局が設置されたらしい。(San Fidel という名前は1919年から)


一口に廃墟とは言っても中には建物そのものが立派に残っているものもある。当時は Cafe、Gas Station、Garage、そして Curio Shop と呼ばれたお店も繁栄し、実際その Curio Shop は2010年までアートギャラリーとして細々ながら営業をしていた。今回そんな サンフィデルの荒れ具合を「確認」すべくアルバカーキから西進、(MLBのキャンプを観るという理由もあったが)アリゾナ州へのドライブを敢行した。


サンフィデルのメインストリート

街に入ってすぐに目に止まるのは進行方向右側の Jack Rittenhouse、1946年あたりまでは随分と賑やかなトレーディングポストだったとか。荒れ具合が素敵過ぎる。何度も言うが私は廃墟フェチではない。が、中々の「作品」に自ずと車から降りて探検モードに入る。晴れている日中は何てことないのだが、冬場や夕方の暗くなって冷たい風が吹く時間帯等はこの手の建物は100%ホラー映画だ。ホラー映画も好きな手前絶対起こりっこないシーンまで想像してしまう。。。

そしてその先、Cafe、Garage と探検を続けた後、通りを渡ったギャラリー跡に人の気配がしたので目を凝らす。
あ、やっぱり人だ。しかも何か作業している。何度か走った経験の中でサンフィデルで会う最初の人だ(笑)

彼の名前は Pablo von Lichtenberg、アメリカはセントルイス出身のアーチストだとのこと。最近25年間ドイツはベルリンに居を構え、パリ、ニューヨーク、そして地元のセントルイスでも展示会を開く正真正銘の芸術家さんだ。約30年近く外国で暮らす私自身の経歴とオーバーラップし、つい話は弾んだ。
現在パブロが手掛けているのが Acoma Curio Shop を一大アートギャラリーとして復活させることだ。メインとなる建物をしっかり改装、中はモダンな感じで陽の光をふんだんに取り入れるギャラリーを中心に、アーティスティックな壁画プロジェクトを計画。隣接した公園には既にその骨格となるガゼボやオブジェが少しずつ置かれている。
驚くことにパブロの手掛けてるギャラリーの正面の建物、そして前述の Rittenhouse や Garage等、彼のアイルランドやオランダの友人達が続々購入したそうで、カフェやブックストア等、今後サンフィデルの街を REBORN させる計画があるのだそうだ。


勝手に廃墟と決めつけていた街が、ドイツ仕込みの米国人、オランダ人、そしてアイルランド人の手によって生まれ変わろうとしている。何とエキサイティングな話だろうか。作業の手を止めさせるのは申し訳ないが面白くて仕方ないのだ。
途中、奇しくも同じカリフォルニア州オークランド在住の、テキサス女性も通りがかって車を停めて会話に加わってきた。彼女もアーチストだと言う。今さっき会ったばかり、名前すらまともに知らない3人が廃墟?サンフィデルの街の路上で時間を忘れて語り合う。これだから人生は楽しい。ルート66には予想もしない面白い出会いや話題が転がっているのだ。

        作業中のギャラリー前でポーズと取るパブロ

パブロはベルリンから戻り、たった4日間でセントルイスの自宅を売却、そしてこの場所を購入したそうだ。彼曰く「人生で最も忙しい4日間」だったそうだが、想像には難しくない。自分の思う通りに進んだ、らしい。何と羨ましいことか。
サンフィデルの街は撮影に10分~15分程度を見込んでいたのだが、気が付いたら
1時間半は悠に経っていた。これから変わるであろうサンフィデルの街を想像しながら再開の約束をして西へ向かった。
生きてるとやっぱり良いことあるよね。

最後にパブロの手掛ける壁画プロジェクト、”Route 66 Art & Mural Wall Project” は現在クラウドファンディングで資金を募集中だ。
https://www.gofundme.com/artwall66

 

George & Cool Spring Station


アリゾナ州クール・スプリング・ステーション。それはまるで何処かの異星に居るような気分に浸れる。同州キングマンの街より走ること約25分、それは何もない場所にポツンと佇む - アリゾナ・ルート66を代表する人気スポットの一つだ。

クールスプリングス集落は1920年代に出現。しかしその後他州同様、1950年代にルート66が街を迂回するようになった後は急激に寂れ、現存のこのステーションだけが残った。ステーションのオーナーである Ned Leutchner 氏は、1997年にルート66を旅した際この土地に一目惚れ。数年かけてこのステーションを購入した後、外観を改装して 2004年12月からお土産屋(兼)博物館(兼)ガスステーションとして開業し始めた。

George Chicago、自身をバイキングの末裔と言いデンマーク国旗を常に掲げる心優しい大男に会ったのはつい最近、2014年のことだ。多い日は数十人ほどの来客があるらしいが、その日は天気が良いにも関わらず3月というシーズン前だからか、私が彼と過ごした2時間あまりの間には殆ど誰も来なかった。


ミネソタ出身のMR バイキングの末裔、退役した後にアリゾナの辺境に辿り着いた彼と、日本を飛び出しアメリカに居場所を求めた放浪癖のあるホテルマンの私に接点などない。が、まるで前から知ってるかのように色々な話が出来たのはとても嬉しい思い出である。

その一年後に再開した時、また私達は1時間超えの話に花が咲いたが、突然ジョージは屈託のない笑顔で私にこう言った。
「トシ、今回が無理なら次はいつ来るんだ?その時は裏にある俺のトレーラーハウスに泊まれる時間を作れよ。飛びきり美味いウオッカと星空をご馳走するよ。」
次の話をするなんて珍しいな、と思い私はこう続けた。
「じゃあ寒くなる前に来なきゃな。ここだって秋冬は冷えるんだろ?」

「お前の住むカリフォルニアから比べたら寒いかもな、ははは。」
「急かせるわけじゃないんだが、ここだけの話。実は俺な、タイに行くことにしたんだ。だからそう長くここには居られない。まだはっきり日は決めてないがな。」
「タイだって?何でまたそんな遠いところに?行ったことあるのか?アジア人の俺でさえないぞ(笑)」
「誰にも言うなよ、彼女が出来たんだよ。それで一緒に彼女の国に”帰る”ことにしたんだ。」
よく見たら一年後もジョージは同じような恰好をしていた。


こういう友人が幸せになるって話は本当に嬉しい。
心から祝福しジョージが行ってしまう前に必ずもう一回来ると約束して別れた。

その後知り合いからこんなニュースを聴いた。
「Cool Springs Camp が住み込みでのお世話人を探しているらしいよ」

どうやらジョージとの約束は果たせないまま終わってしまったようだ。

昨年キングマンを訪れた際、車を飛ばしてステーションに行ってみた。
まだジョージの後釜は見つかっていないようだ。
あのトレーラーハウスは無く、ステーションも閉まったまま。


時折ネイティブアメリカンがお土産物を店横で広げては何も言わず通り過ぎる車を見つめていた。
私はドアに残された、確かに訪れた跡を確認してキングマンへ向かって帰ることにした。

追記:
このステーションのお世話をしてくれる人はまだ募集中とのこと。
Leutchner 氏曰く、新しくお世話人になることの「特典」として、
①モーターホームに住んで快適な生活ができる
②ルート66のアイコンで、地球上で最も「カッコイイ」場所の一つに住める
③もちろん電気、水道(新鮮な井戸水)完備。
しかも、
④公共料金、家賃は無料!(オーナー払い)
⑤販売員、サービス業の経験があれば何と給与も考慮だって!

やってみたい人は Leutchner 氏に連絡を!(笑)

武蔵野の逃げ水@Texola, OK


私は決して廃墟マニアではない。と、常日頃から発信しているが廃墟にはどうも惹かれるものがあるらしい。ルート66ファンであれば皆が知っている Texola の街も一見そんな様子だが、実は人々が堂々と生活している街?村?集落だ。そのTexola を目指して更に西へ。


Texolaの歴史は1900年代初頭に遡るらしく、当時は Texokla とか Texoma と呼ばれていたらしい。オクラホマ州にあるのだけど、もう数マイル(も、無いかな)行けばそこはテキサス、なるほど頷ける呼び名かもしれない。Texokla はフランス人や ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)の支配時期を過ごした後、1907年オクラホマ州がアメリカ合衆国46番目の州になるけど、実際には1901年12月12日、ルーベン・H・グライムスが最初の郵便配達官となってコミュニティを設立したとの歴史があるのだ。

上の写真はメイン通り(ルート66)だけど、車も通らなければもちろん歩いている人もいない。廃墟群?と思いきや今でも約40人ほどが住んでいるとのこと。
(確かに人が住んでいる気配の家も幾つかある)

左端はTexola では一番有名な Magnolia Service Station。開業は1930年頃で建物はいわゆる「民家風」、周りの景色に馴染むよう設計されたそうだ。当時東に向かって旅する人々にとってはオクラホマ州最初の給油所だった。

大通りはせいぜい数百メートルの距離だけに、車を降りていつものように一歩一歩街を散策してみる。4月の後半だと言うのに今日の気温は88度(摂氏約31度)。
路上にペイントされた色あせたルート66のシールドを撮影している先には幾つもの「実際には無い水たまり」が見える。逃げ水とは良く言ったものだと感心した。

 

安らぎを求めてErickへ

アーケディアのネオンフェスタ後、今回の最終訪問地であるテキサス州アマリロに向けて私は西へ西へと車を走らせる。
次の大きな目的は Erick という小さな街の偉大なエンターティナーに会うためだ。
Harley Russell、自らを「二流」と呼ぶルート66を代表する「一流」は今日もまた観光客を持て成す。
街の中心を横切るルート66を Sheb Wooley 通りで左折すると、見慣れた標識と看板で覆われた宮殿が見えてくる。変わっていない、そう変わるわけないか(笑)


ちょうど到着した時は建物の前に何も停まっていないシャッターチャンス。中からはもう帰るであろう観光客とHarley が会話をしているのが聴こえた。


「やあ、Harley 調子はどうだい?」内に開く網状の扉を開ける。
「おやおや誰かと思えば珍しい客だな」と、言葉と裏腹な人懐こい笑顔を顔いっぱいに出迎えてくれる。

相変わらず元気そうだ。「最近はどうしてる?」「今回はどこまで行くんだ?」「日本のツアー客はまだかい?」矢継ぎ早に質問の集中砲火。まあいつものことだ。とは言え、彼は特に質問の答えを早急に求めているわけではないのだ。

 

 

 

「まあ、いい。後ろの家の方でゆっくり話そうじゃないか、今日はもう予約は入ってないからな」笑顔そのまま「宮殿」から一本隔てた自宅へと導かれる。


「好きなとこに座んな。アイスティーでいいかな。これは俺の特製さ、美味いんだ、きっと気にいるさ」そう言われたら要らないとは言えない(笑)

そうやって私とHarley のゆっくりとした時間は様々な話をしながら過ぎた。なぜかこの場所に来ると、Harley と話をしていると気持ちが安らぐ。不思議な感覚だ。ルート66を愛し、音楽を愛し、旅を愛する。そんな共通点が国も人種も文化も全く違う人間を出会わせ何度か同じ空間に置く。何度も繰り返すが、これがルート66に魅了された楽しさの一つだ。私達の大きな違いは、彼は「一流」のエンターティナー、私は(そこそこ一流の)人見知りという点だ(笑)

どの位時間が経ったのだろうか。春から夏に移行する中世部は陽が長いが、もう夕方か。互いの近況や事情を一通り話し合った。楽しく、そしてゆっくりと落ち着いた時間をまた過ごさせてもらった。本当に寛げる安らぎに時間を与えてくれる Harley に感謝だ。

次の再会を約束して私はゆっくり腰を上げた。さて、いよいよテキサスだ。

追伸①:例のアイスティーは美味しかったけど、ちょっと甘いなぁ(笑)

追伸②:今日8月19日は、UKからの訪問客と元気にFBに載っている。人気者 Harley の夏はまだまだ終わらない。
(写真は彼自身のFBページより)

 

 

西へ進むよ、日曜日。


夢心地の宴から一夜が明けた朝は絵に描いたような快晴となる。これこそルート66に相応しい。晴れ男の異名、回復の朝だ(笑)
何度も通っているオクラホマシティ内最大の湖、オーバーホルスター湖を左手に見ながら橋を渡る。インターステート40号線の北側をほぼ並走するルート66をゆっくり走る。冷たい風が気持ち良い。

Yukon、El Reno、と街を越えるともうすぐ今日の第一目的地、ポニーブリッジだ。ポニーブリッジがあるのは Bridgeport という街だが、ここは特筆する観光スポットは無い。ほぼゴーストタウンと言っても差支えないかもしれない。前述した街々も決して大きくないので、足早にインターステートを通ってテキサスに急いだのならこの橋にお目にかかることはないのだ。
ポニーブリッジはカナディアン河にかかる橋で、全長約4000フィート、38個のトラスが使われており、1933年7月1日に完成した。映画「怒りの葡萄」の中にも登場している。
今日は日曜日の早朝、当然ルート66を走るものは殆どいない。誰ともすれ違わないし、追い抜かれも追い越しもしない。(やっとこの橋ですれ違うことが出来たんだけど)だからラジオステーションを大好きなカントリーミュージックに合わせのんびり横断してみる。

橋を渡った後は Hinton の街を抜け、西へ向かって更に E1020 Road を走る。E1020 Roadとはこの区画上でのルート66の別称だ。特に民家も多くのないこのあたり一帯では東西に走る道は「E」、南北に走る道は「N」を冠した道番号となっている。Hinton を抜けて更に10マイル強走るとそこは Hydro の街。E1020 Roadは限りなくインターステートに近づき並走する。Hydro の街には郵便局、教会、薬局、そしてピザ屋さんと、必要最低限のものしかない。ただその小さな街をルート66上でも極めて有名なスポットに変えたのが Lucille’s Service Station。1929年に建てられた古典的なガソリンスタンドで、1941年ハモンズ一家が運営を引き継ぎ、ルート66史上に残る「マザーロードの母」と呼ばれて親しまれたルシールさんは彼女が亡くなる2000年まで、約60年に渡って多くの旅人と接してきた。
私も1993年以来何度か通ったが、残念なことにまだネットもSNSも確立していなかった頃。ついぞ彼女に会うことは出来なかったのがとても残念だ。

ちゃっかり貼らせて貰っている、日本ルート66協会のステッカーの有無を確認し、先を急ぐ(笑)

オクラホマ州ベッカム郡セイヤー。聞いたことがある人は殆どいないはずだ。実際私も初めて訪れた時まで聞いたことすらなかった。当時は人口3000人ほどの街だったが、最近の国勢調査では4500人程度まで増加しているらしい。凄まじい伸びではなかろうか。セイヤーの街を一番有名にしているのがベッカム郡の郡裁判所。

こう見えても?郡都なのである。
ドーム型のデザインが施されている裁判所はオクラホマ州全域を見渡しても数カ所しかない稀有なものなのだ。観光スポットとして有名な Owl Drug Store のあるダウンタウンの交差点を見ていると、とてもそんな人口にいる街には思えない。日曜日の力は偉大だ。


ルート66に興味のない人にとっては多分一回訪れたら二回目はないような場所だ。いや、訂正、一回すら来ないかもしれない。
でもなぜかこの街の持つ独特な空気感、ゆったりと包み込むような雰囲気が私は好きだ。訪れる度に座ってゆっくり眺める「マイスポット」もそのまま、暫く妄想にふける時間が過ぎた。
おっと、今日はアマリロあたりまで出来たら行かないとマズい。そんなばかりはしていられない、とオクラホマ州最後の街へ向かうべく重い腰をあげた。


そうそう、一つ忘れてた。この Owl Drug Store 跡、きれいなオレンジ色の Rexall の文字が魅力的なんだけど、何とこれと同じ看板で現在も元気に営業しているお店が、自身の住む街サンフランシスコにあったのだ!
あまりの感動に写真を撮りまくっていたが、傍から見ればただの薬局。変な奴とばかりにジロジロ見られたことが記憶に新しい(笑)

 

 

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